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令和8年（ネ）第920号　オンライン記事掲載差止等請求控訴事件
- 一審原告:部落解放同盟埼玉県連合会　外1名
- 一審被告:宮部　龍彦
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# 準備書面2

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東京高等裁判所第15民事部B乙係　御中
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令和8年6月22日

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- 一審被告:宮部　龍彦
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本書面は、一審原告らの意見陳述を裁判所が認めたため、一審被告も不本意ながら読み上げるために提出するものである。本来、争点は口頭の印象ではなく、準備書面と証拠によって整理されるべきである。

もっとも、読み上げ時間には限りがあるため、原審以来の手続運用、支援者動員、意見陳述の扱い、差止めの範囲の広さという核心に絞って述べる。

したがって、本書面に記載していない点を認める趣旨ではない。一審被告は、控訴理由書その他既提出書面の主張を維持し、一審原告提出済み書面に対する必要な認否反論は追って準備書面により補充する。

## 第1　被告に負担をかけること自体が目的化している

原審の訴訟指揮は、公正を害し、当事者間の対等を壊していた。公開法廷は、公正な対審の場であって、一方当事者の政治的アピールの舞台ではない。

それにもかかわらず、原審では、一審被告が欠席した第1回期日に、一審原告側だけの長文の意見陳述が行われた。さらに、一審最後の口頭弁論期日である令和7年9月10日にも、一審原告らは予告なく同様の意見陳述を行い、一審被告が抗議したにもかかわらず、裁判所はこれを許した。

つまり、原審では、最初の期日でも最後の期日でも、一審原告側の口頭による印象を法廷に持ち込む運用がされた。その間にも、支援者動員、期限徒過、主張の先延ばしによる本来不必要な口頭弁論への対応を含め、一審被告だけに防御負担と出頭負担が累積した。

また、一審原告らは公開法廷での進行に強くこだわり、オンラインによる口頭弁論期日には明確に反対した。

これは、審理方式の好みの問題ではない。本人訴訟の一審被告を期日ごとに出頭させ、多数の支援者の前に立たせる。その負担自体が、一審原告らの訴訟戦術に組み込まれているとみるほかない。

法廷は集会所ではない。対審の公開は、裁判所の判断過程を市民の監視に開く制度であって、特定団体が傍聴席を埋め、期日と報告集会を行うための制度ではない。

乙31には、令和6年6月26日の原審第2回口頭弁論で約100人の支援者が集まり、抽選で44人が傍聴し、期日後に報告集会が行われた旨が記載されている。

さらに、乙34及び乙35によれば、部落解放同盟熊谷市協議会は、熊谷市から同和対策振興補助金として、令和5年度に7,531,000円、令和6年度に6,777,000円を受けている。そして、原審の提訴、支援する会結成集会、第1回ないし第3回口頭弁論期日について、参加者数、日当、案内文発送費を補助事業実績としている。

無料であるはずの傍聴席が、補助金会計上は行動費の一部になっている。公金を背景に人を集め、期日と報告集会をセットにするやり方自体が、被告への圧力として働いている。これは被告だけの問題ではなく、部落解放同盟に逆らうと、個人であってもこうなるのだぞという見せしめであり、社会における表現行為全般に対する威圧である。

本当に一審原告らが本件記事で静かな生活を傷つけられたというなら、訴訟は必要最小限の範囲で静かに進められるのが自然である。ところが現実には、本件訴訟そのものが、支援者を集め、報告集会を開き、補助事業実績として計上される社会運動になっている。

つまり、一審原告側は「部落探訪」を、組織活動を動かし、支援者を結集し、行政と裁判所を巻き込むための材料として利用している。被害回復を求める訴訟の形を取りながら、実際には、一審被告に最大限の負担をかける運動資源として消費されている。

このような訴訟追行は、被害回復のための権利行使ではなく、相手方に過大な負担を課すことを目的化したものであり、訴訟上の信義則に反する。少なくとも、裁判所がこれを訴訟指揮として追認することは許されない。

## 第2　不安やおそれを理由とする判決の破綻

一審原告らは、部落に居住することや、これを推知される情報が公表されれば、実際に不当な扱いを受けなくても、不安により平穏な生活が侵害されると主張する。

しかし、根拠のない不安で他人の表現を消そうとする発想は、結婚差別や就職差別を正当化する論理と構造が同じである。具体的事実抜きに、属性や地域との関係だけで排除するからである。

本件記録上、一審被告の記事によって、個人原告が、いつ、誰から、どのような差別的取扱いを受けたのかは具体的に特定されていない。削除要請や申入れをいくら並べても、差別被害の証拠は増えない。

原判決は、本件記事1の閲覧者の中に、個人原告の住所や自宅外観を知る者が含まれる可能性を前提に、推知可能性を認めている。しかし、そのような既存の知識を持つ者を基準にすれば、地域に関する記録、歴史研究、行政資料、新聞記事、地図、写真は、すべて危険視しなければいけなくなる。

一審原告らは、当該表現によって具体的な権利侵害が現実に生じたか、又は切迫しているかを説明していない。

しかも、原判決自体が、個人原告について、新潟県出身であること、32歳頃から当該地域に居住したこと、平成7年から支部長を務めたこと等を記載している。一審被告の記事より、裁判記録や判決の方が、個人原告の属性や経歴を公に書いているのである。

被告と面識のない人物が出てきて、被告の記事にはなく、被告も知らなかった身の上話を公にしなければ成り立たない時点で、プライバシーないし人格的利益の侵害を理由とする判決としての論理が破綻している。

## 第3　「新たな手がかり」と「芋づる式」は結論の先取りである

原判決は、原審乙29及び原審乙30が、埼玉県内の部落について地名とともに言及し、現在でも古書店等で入手可能な資料であることを認定している。また、国立国会図書館デジタルコレクションで過去の部落に関する書籍が検索可能であることも認めている。

そのうえで原判決は、書籍の検索やAIによる検索は「条件の入力行為」を要し、部落に何らかの関心がある者が行うことが前提であるから、本件記事1はそれらの者に更に新たな手がかりを与える、と述べている。これが原判決の論理である。

しかし、この論理は成り立たない。国立国会図書館デジタルコレクションは、インターネット上の検索サービスである。原審乙29はそこに存在し、検索により到達できる。条件入力が必要なことは、情報が存在しないことにも、到達困難であることにもならない。

そもそも、原判決自身も、本件各記事を閲覧する者について「被差別部落に関心を有する者」であると述べている。そうであれば、デジタルコレクションやAI検索を使う者だけを「関心がある者だから別」と扱い、本件記事を見る者についてだけ危険を上乗せするのは、同じ前提の使い分けである。

原判決は「更に新たな手がかり」という言葉で、一審被告の記事だけを特別に危険視する。しかし、既存資料が検索され、AIで照合される時代に、一審被告の記事だけを「新たな手がかり」と呼ぶなら、その上乗せ危険を具体的に示さなければならない。示されていない以上、それは論理ではなく、結論維持のための悪あがきである。

さらに原判決は、個人原告1名の救済を出発点としながら、県内記事全体の削除、公表禁止、書籍、出版物、放送、上演、戯曲、映画化等まで含む媒体横断の禁止を命じている。しかも、「一部を抽出しての掲載等を含む」とされている。

全国部落調査裁判と照らし合わせると、原判決の意図がはっきりする。同裁判の東京地裁判決及び東京高裁判決（甲23、24）は、部落解放同盟について、構成員の権利侵害が直ちに団体の名誉権や業務遂行権の侵害になるとは認めなかった。団体自身に、全国又は地域全体の削除を求める権利を認めなかったのである。

他方で、同裁判において個人原告の請求を根拠に都府県単位の削除及び公表禁止が認められたのは、「全国部落調査」が、各府県別部落調査を基礎にした都道府県別の地域一覧だったからである。

本件で問題となっているのは個別の現地記事であり、全国部落調査裁判の論理を適用できない。原判決はこの違いを知っているからこそ、一審原告団体の請求は棄却した。ところが、個人原告1名の請求だけでは県内記事全体の削除には届かない。そこで持ち出されたのが、「同一カテゴリー」「通し番号」「一覧性」「芋づる式」という後付けの論理である。

これは、全国部落調査裁判に沿っているように見せながら、前提を欠いたまま結論だけを借りたものである。団体請求としては認められない広範な削除を、個人の請求という名目で強引に認めている。

## 第4　結論

一審被告の表現が不快である。挑発的である。原告側が怒っている。支援者が集まっている。そのような事情は、裁判所が冷静さを失う理由にはならない。民事訴訟の目的は救済であって制裁ではない。

本件では、裁判期日を運動の場とし、本人訴訟の相手方に最大限の負担をかける構図が続いている。裁判所は、その構図を漫然と受け入れてはならない。

繰り返しになるが、未記載の点については、今後、必要に応じてさらに書面で補充する。

また、控訴審においては、意見陳述、傍聴運用、オンライン手続の採否等については、当事者の対等と公正を害しない運用を求める。

以上
