部落解放同盟大阪府連合会が主張する「任意的訴訟担当論」に対する批判を、法理論および社会的観点から整理し、より厳格に論述する。 --- ### 1. 法治主義と訴訟手続の潜脱(形式的側面からの批判) 本件主張は、民事訴訟法および弁護士法が予定する訴訟構造を、解釈論の名の下に事実上書き換えようとするものであり、法治主義の観点から看過しがたい危険を有する。 * **弁護士代理原則・非弁行為禁止の実質的骨抜き** [cite_start]民事訴訟法は、訴訟追行を当事者本人または弁護士に限定し、弁護士法72条は非弁行為を禁止している。これは、事件屋・圧力団体の介入を防ぎ、当事者の利益と裁判の公正を担保するための制度的防波堤である。原告は「営利目的ではない」「被差別部落住民の保護が目的だ」と主張するが[cite: 516, 517]、営利か否かだけで非弁行為を線引きすることはできない。特定の政治的・運動的目的を掲げる団体が、「自らの理念に適合する裁判例」を蓄積するために個人の権利を組織的に代行するのであれば、金銭的利得と同等かそれ以上に重大な「団体としての利益追求」であり、非弁行為禁止の趣旨から見て容認しがたい。ここで包括的な任意的訴訟担当を認めれば、「弁護士資格を持たない団体が、構成員・非構成員を巻き込んで訴訟を運用する」ことを事実上解禁することになり、弁護士法72条の防波堤を大きく切り崩す危険がある。 * **明文制度(選定当事者)の迂回と裁判所による準立法** [cite_start]多数当事者訴訟については、民事訴訟法30条が「選定当事者制度」を明文で規定し、誰がどの範囲で代表しうるか、反対者はどう保護されるか等について、立法府が一応の答えを与えている[cite: 494]。それにもかかわらず、本件原告はこの制度を用いず、「任意的訴訟担当」という判例上の例外理論を拡張することで、実質的には選定当事者と同様の効果を得ようとしている。これは、明文の手続ルールを「使い勝手が悪い」「同意を個別に集めるのは困難だ」という理由で迂回し、裁判所に対して「解釈による集団訴訟制度の作り替え」を迫るものである。こうした司法による準立法は、法の支配の観点から例外的にしか許されないはずであり、少なくとも本件のように、当事者範囲も授権の有無も不明確な事案で軽々に容認されてよいものではない。 --- ### 2. 当事者適格と代表の正当性の欠如(実質的側面からの批判) 「団体が被害者を代表する」という構造自体は理論上否定されないものの、本件のように人格権侵害を理由としつつ、地域住民全体の包括的代表を自称することには、民主的正当性と利益相反の両面で重大な問題がある。 * **包括的「授権」の擬制と、個人の自己決定権の侵食** [cite_start]原告は、①会員が会費を払い、②役員選挙に参加し、③団体の綱領を承認していることを根拠に、「人格権・プライバシー権に関する訴訟追行権まで包括的に授権されている」と主張する[cite: 516]。しかし、一般の団体加入は、政治的支持や運動への共感を意味するにとどまり、自らのセンシティブな属性(出自・居住歴等)を公的に主張・争訟に供することを包括的に委ねたと解するのは飛躍である。とりわけ人格権・プライバシー権は個々人に最も固有な権利であり、その行使・不行使や防御の仕方は、人によって判断が分かれて当然である。これを「一度加入したから全面的に団体に任せたはずだ」と推定することは、団体の名の下に個人の自己決定権を吸収・収奪する構造を正当化することになり、憲法13条の個人の尊重と深刻に衝突する。 * **非構成員・反対者への越権的代表と、団体利益との潜在的衝突** [cite_start]さらに本件主張は、団体構成員にとどまらず、「大阪府下の被差別部落住民・出身者一般」を事実上の被担当者とみなしている[cite: 451, 479]。しかし、この中には、①同盟に所属しない者、②過去の運動手法に批判的な者、③地域史の扱いについて異なる見解を持つ者も必然的に含まれる。そのような多様な当事者を一括して「大阪府連が代表する」と見なす根拠は存在しない。むしろ、団体には「差別解消運動の存在意義を誇示し、組織の影響力を維持・拡大しようとするインセンティブ」が常に働くため、団体にとっての「運動の成功」と、個々の住民にとっての「静穏な生活」や「多様な歴史観の共存」が衝突する場面は容易に想定される。にもかかわらず、団体に地域全体の利害の独占的代表権を与えることは、「組織の論理」が個々の人格権を呑み込む危険を制度的に埋め込むことであり、到底容認しがたい。 --- ### 3. 言論空間の独占と「歴史の私有化」(社会的影響からの批判) 本件の任意的訴訟担当論を認めることは、単なる訴訟技術の問題にとどまらず、「特定地域について何を語ってよいか」を事実上、特定団体が決定できる体制を生み出す。これは、表現の自由と民主的言論空間に対する構造的な脅威である。 * **事実上の「検閲権」の授与** [cite_start]原告は、地名、旧来の職業、地場産業、寺社や祭礼の情報など、本来歴史的・文化的・地理的な事実情報に属するものまで、「差別に結び付くおそれがある」として削除対象に含めようとしている[cite: 305, 308, 319]。もし「大阪府連が大阪府下の部落住民を代表して人格権侵害を主張できる」と認められれば、その地域に関するウェブ情報や出版物について、「どの程度具体的に地名を出すと差別なのか」「どのような記述なら許されるのか」を、団体の解釈次第で左右できる強力なポジションが与えられることになる。それは、国家による形式的な検閲ではないにせよ、「団体が訴訟を通じて言論内容をコントロールする」準検閲権に等しく、憲法21条が警戒するべき事態にほかならない。 * **学問・報道への萎縮と、特定史観による「歴史の私有化」** いったんこのような判決が確立すれば、歴史学者、郷土史家、ジャーナリスト、出版社、ウェブ事業者は、「部落解放同盟の判断基準に反すると差別訴訟の対象になりうる」という前提で自己検閲を行わざるを得なくなる。とりわけ、部落問題に関する歴史叙述や地域社会の変容を扱う研究・報道は、「団体の公式見解」と微妙に異なるだけで訴訟リスクを負いかねず、結果として「団体の史観に反する言説」が市場から姿を消していく危険がある。これは、歴史・社会に対する複数の見方が競合しうるという民主主義社会の前提を掘り崩し、「特定団体による歴史の事実上の私有化」を招きかねない。人格権保護の名の下に言論空間が痩せ細るのであれば、それは人権保障の自己否定にほかならない。 --- ### 4. 「現代版身分+総代制」としての構造的危険 最後に、この主張は、法技術的には任意的訴訟担当論の一応の枠組みを借りつつ、その実、「出自(被差別部落民であること)」と「特定団体による包括的代表」を結び付ける、現代版の「身分+総代制」を制度化する危険を含んでいる。 原告の論理を端的に言えば、「大阪府下の部落民は、差別からの防御について大阪府連に代表される存在である」という図式である。この構図は、個々人が①部落解放同盟に批判的であっても、②別の運動形態を選びたくても、③そもそも「自分を部落出身と公的に位置付けてほしくない」と考えていても、「出自・居住歴」という出生に由来する属性によって、自動的に特定団体の「代表される側」に組み込まれてしまう危険をはらむ。これは、かつての「○○身分である以上、○○総代の支配に服する」という身分制的発想と構造的にきわめて近い。 現代の憲法秩序は、結社の自由の一内容として「特定の団体と同一視されない自由」(消極的結社の自由)を含む。にもかかわらず、司法が「部落民=部落解放同盟により一括代表されるべき対象」と追認すれば、当事者の自由な距離の取り方を事実上封じ、「差別と闘う」という名目で、新たな類型的拘束を生み出すことになる。この意味で、本件の任意的訴訟担当論は、差別解消を掲げながら、別の形の差別的構造(出自による団体帰属の固定化)を再生産する危険を内包しており、極めて慎重に扱われるべきである。 --- 以上のとおり、本件で主張されているような形での任意的訴訟担当は、①手続法の原理を迂回し、②個人の自己決定と結社の自由を侵食し、③言論空間と歴史叙述を特定団体の支配に委ね、④出自に基づく現代版身分制を事実上固定化するという、重層的な危険を伴う。差別からの防御の必要性は否定しがたいとしても、そのためにこれほど包括的な代表権を一団体に与えることは、法理論上も社会的観点からも許容しがたいと言うほかない。