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令和7年（ワ）第3286号 オンライン記事掲載差止等請求事件
原告 部落解放同盟埼玉県連合会 外8名
被告 宮部 龍彦

原告ら第2準備書面

2026年9月24日

さいたま地方裁判所第2民事部 御中

原告ら代理人弁護士 山本 志都
同上 瀬戸 一哉

原告らは、本準備書面で、「部落探訪」（以下同様に「人権探訪」「曲輪クエスト」を含む。）の記事（写真を含む）動画中における、原告らを含む地域住民の具体的人格権の侵害について、主張を補充する。

第1 原告らの人格権侵害につながる各記事の内容

本件各記事は、示現舎のウェブサイトの「部落探訪」（その後「人権探訪」「曲輪クエスト」とタイトルは変わったがコンセプトは変わっていない。）というカテゴリー内に掲載されている記事である。また、本件記事中に、本件動画閲覧のための入口が動画のサムネイル写真として設定されている。

被告は、2015年12月から示現舎のウェブサイト上で、全国各地の被差別部落とされる地域に「潜入」し、被差別部落名や所在地を明示し、所在地や特徴がわかるような写真及び動画を撮影しながら、その場所のレポートを行い、編集して解説文をつけるという「部落探訪」と称するコンテンツを

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開始した。2016年3月時点では4か所、同年11月時点で19か所、2017年9月時点でも40か所にすぎなかったが、現在（2026年9月23日）ではすでに469か所を数えている。

各ウェブページには、それぞれの地域内の住居や事業所、寺社、墓地などの写真及び住民の姓名、職業などに関する記事が掲載され、その各地域が「被差別部落」あるいは「同和地区」であることを暴露する内容となっている（「古村」は中世以降の歴史的呼称であるが、被告は「古村」という言葉を「被差別部落」という意味で用いている）。

そして、「部落探訪」は、どこの道府県のどこの市町村のどこの字（住所表記）の地域が被差別部落であるかということを、文章と当該地域やそれに関連する写真により、特定し暴露する内容の記事を投稿するという性質のものである。以下の全ての記事について、タグには「古村」との表記があり、タイトルとして、それぞれの地域の名称（各記事目録の「タイトル」）が記載されている。以下、被告が掲載した記事内の写真中に掲載順に「写真①」「写真②」・・と表記する。全ての記事において写真①はその後には掲載される写真のうち1枚を選択した、記事のサムネイル写真であり、ほとんどの記事において（例外は甲52及び甲53のみ）写真②は動画のサムネイル写真である。

1 甲1（別紙記事目録1）

「・・大衆食堂の近くには古村があると聞いた。地名で言えば肥塚のことで、戦前に55世帯があったとされる。」と記事が始まるが、この「55」というのは、戦前に作成された『全国部落調査』に「戸数」として記載されているものである。

写真③及び同④では、地域にある「大衆食堂」が具体的に特定されている。

被告は、写真⑤で、住宅街の中と思われる場所を撮影し、「しかし、古村

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の場所はそこから1kmほど北で、熊谷バイパスを挟んだ先である。/元熊谷市職員の方から聞いたのだが、熊谷市ではゴミ処理関係の現業職員は特定の地域に偏っており、菊地姓が多かったという。」と解説文をつけた。そして、それを受けて、ネット上の住宅地図『マッポン！』で、肥塚の中の一部地域に「菊地」「前林」「田口」という名字を記載したものを掲載（写真⑥）、「名字の分布を解析すると、肥塚の中でもきたのはずれ、『天神久保』と呼ばれる場所に集中することが分かった。また、小曽根の古村とも隣接しており、いずれの村も前林という名字も多いことが分かる。」と解説文を付している。

写真⑧及び同⑨は、熊谷市の環境美化センターの正門付近を撮影したものである。環境美化センターは、家庭ごみ等の収集運搬、一般廃棄物最終処分場の管理運営、ごみ集積所の新設、移転及び廃止の相談、ごみ収集車両の管理などを行っている場所であり、熊谷市のホームページで「家庭ごみ等の収集運搬業務の車両基地」として紹介されている。

写真⑩及び同⑪の建物が写されている写真には、「確かに、ここには解体業者や清掃業者が多い。」「解放同盟の支部もあって、熊谷市で現業職員の処遇で交渉となると、同和団体との関わりは避けられなかったという。」と解説文が付されている。

写真⑫、同⑬及び同⑭は石碑等の写真であり、写真⑭はゴミの集積所等の写真である。

写真⑯及び同⑰は、地域内の住居の写真であり、「現在訪れてみたところでも、菊地と表札が出た家は門構えが立派で大きな家が多い。」と特定の姓名の住民の住居について解説文が付されている。

写真⑱の建物の写真には、「ここが熊谷市立肥塚集会所で、同和対策の集会所になる。」と解説文が付されている。

写真⑲及び同⑳は、地域内の住居の写真である。被告は、「地図や家の住

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所表記を見ると、肥塚というよりは肥塚と小曽根の境界上にまたがっている。」と記載し、地名ではなく「被差別部落はどこか」という観点で地域内を歩き回っていることが明らかである。

2 甲2（別紙記事目録2）

被告は、冒頭で「熊谷市柿沼に20戸の古村があったという。しかし、この村についてはあまり記録が見当たらない。/熊谷には同和対策の集会所があるので、柿沼にもそれがないか調べてみると、どうも柿沼集会所というのがあるらしい。」と記載しているが、「20」という数は『全国部落調査』に戸数として掲載されている数であり、被告が『全国部落調査』に掲載されている情報を足がかりにして、本件記事を作成していることが窺える。

写真③ないし同⑥は、「柿沼集会所がある」という土地の写真である。

写真⑤及び同⑥の解説文に、被告が、近所の人に声をかけて、「集会所は地域でお金を出し合って作ったもの。同和といえば柿沼にもあった」という話をされたと記載されている。

写真⑦及び⑧は近隣にある斎場を撮影したものであり、写真⑧には「その目標となるのが斎場。葬儀場と火葬場が集まっている場所があり、その裏手に前原という村があったそうだ。斎場は大原にあるが、すぐ近くに柿沼との境界がある。」と解説文が付されており、一般的に忌避されがちな施設が周辺にあったことが指摘されている。

写真⑨は、書籍の一部を被告が撮影したものと思われるが、義援金を出捐した個人名が地名と共に記されているものである。被告は、「その中に『埼玉県大里郡大幡村柿沼小林波二郎』がある。」と地名と個人名を結びつけて明らかにしている。

写真⑩は、ネット上の住宅地図『マッポン！』で柿沼及びその周辺地域

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に「小林」という名字を重ねて分布状態を示したものである。被告は、「マッポン！の分析結果がこれ。南側の大きな墓地の周辺に斎場があり、その北に小林という名字が多い。」と解説している。

写真11は、1960年代の航空写真に「小林」という名字を重ねて分布状態を示したものである。

写真12ないし同15は、住宅を写したものであり、写真14の解説には「古い家の表札は小林が多い気もするが、そうでない大きな家もある。」と記載され、被告が特定の姓に注目して観察をしていることが分かる。

写真16は舗装されていない道路、写真17は袋小路、写真18はゴミの集積場などが撮影されている。写真19は木立ちと住宅が撮影され、「この茂みの中に何軒か家がある。」と解説されている。写真20も住宅の写真であるが、「前原という古村について聞いてみたが、知らないという。ただ、何かを隠しているように感じられた。」と解説文が付されている。

3 甲3（別紙記事目録3）

被告は、「肥塚の古村を尋ねると、必然的に小曽根にも迷い込むことになる。／ここには、教育委員会管轄の小曽根集会所、つまりは教育集会所があることがわかる。」と、連続的に、周辺の被差別部落と目される地域を訪問していることを自白している。

写真5は、ごみ集積所の写真であり、「この自治会が『小曽根地区』であることが分かる。」と解説文が付されている。

写真6は、ごみ集積所の出資者の名前が記載されているプレートを撮影したものであり、「前林と菊地という名字が多い。そこは、隣の肥塚と共通する。」と特定の名字が多いと記載されている。

写真7及び同8は、書籍に掲載された義援金を出捐者であり、解説文では「小曽根水平社」と「（埼玉県大里郡中条村小曽根）中沢茂三郎」が特定されている。

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されている。

写真9は、肥塚、小曽根、柿沼周辺地域の地図に「中沢」「前林」「菊地」という名字を重ねて分布状態を示したものである。被告は、この分析結果として「肥塚に多いのは『菊地』、小曽根では『前林』、『中沢』は柿沼および小曽根と代（だい）との境界線当たりに多い。代にも古村があり、一部の住所表記は小曽根になる。」と解説した。

写真12ないし同14は、熊谷市立教育集会所の写真である。解説文には、解放同盟の活動について、「通りがかりの人」に聞いたという内容が書かれている。

写真15ないし同17は、地域内の住居を撮影した写真である。解説文には、「肥塚、小曽根の当たりには熊谷市の下水道が来ていないのだという。」「そして、肥塚のし尿汲み取り業者が汲み取りを一手に引き受けているという。」「理由ははっきりしないが、やはり既得権益なのではないかということであった。」と記載されている（コメント欄には、この記載に触発されて、特定のし尿汲み取り業者や解体業者を特定するコメントが付されている）。

4 甲4（別紙記事目録4）

被告は、菊池山哉の著作を引用して、「並木村は現在の大宮区三橋」と地名を特定し、「みつわ会館」を隣保館として紹介する（写真3ないし同7）。隣保館とは、同和対策事業関連施設であり、被告は隣保館が所在していることを被差別部落であることの徴表として摘示する。

『もう差別はないという人々に』という書籍の引用として、「わたしが住んでいるのは三橋地区ですが、三橋地区の部落民は『山本』と『小林』という、二つの姓におおよそ二分されます。三橋の山本と名のればハハーン、とわかる仕組みになってるわけです」と記載した上で、ネット上の住宅地図『マッポン！』の三橋三丁目の住宅地図上に、この2つの姓の分布状況

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を示す図面を掲載した（写真9）。そして「古村は三つ和会館の南側周辺」とした上で、住宅が写った写真（写真12）に「戸建てには『山本』『小林』という表札が若干多いと感じる」と解説文を付した。これらは特定の名字を被差別部落出身と結びつけるものである。

写真13ないし同19はみつわ公園を撮影したものがあるが、被告は「人権、部落といった掲示物はない」「『三ツ和会』というものがあるらしい」と、被差別部落との関連性などを意識して説明をつけている。

また、写真20の解説文では「旧並木村全体が古村ではなく、古村は南東のはずれにあった。三橋がおおむね並木村の範囲に相当するが、古村の範囲は大体三橋3丁目に一致する。」と被差別部落の範囲を特定しようとしている。

写真27及び同28では「埼玉県『同和対策』運動団体連絡協議会」と「部落解放北足立郡協議会」の看板と建設会社の社名が記載された看板が写されている。なお、コメント欄には、後日、同社の代表者の個人名がさらされた。

写真29、同30及び同32は、地域内にある小規模の墓地の写真を写している。キャプションには、「墓石はすべて『小島』で、確かに4軒分ある。牛飼分はこの墓地の周辺で間違いないだろう。」と名字をさらし、さらに住宅地図に「小島」の分布を重ねて表示している（31）。

写真33ないし同38は共同墓地の写真であり、墓石の「●家」の表示も読み取れるものがあり、「こちらはやはり並木の古村の名字の墓石が多い」との記事が付されている。

5 甲5（別紙記事目録5）

写真2ないし同11は八王子権現内で撮影された写真である。写真7では掲げられた札が撮影されているが、画像表示を拡大することによって、書

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かれている名前を読み取ることができる。解説文には「小林、山崎という名字が多いが、特徴なのは『鯰江』という名字。これは滋賀県から移住してきたと伝承されているが、どれも大地主であるという。」との記事が付されている。写真11には「古い石柱にも小林、三角、渋谷、石川といった名字が見える。これは八王子神社の氏子の一部が古村だったのではないかと推定した。」との記事が付され、特定の姓と被差別部落との結びつきが示唆され、同12ではここにあげた名字と住宅地図が重ね合わせられて表示されている。

写真13ないし同15は白山神社境内で撮影されたものである。「その鳥居の記号の場所【代理人注：写真12の住宅地図で『小林が集中しているあたり』とされた場所】に白山神社がある。・・この石碑には小林、三角が多い。」と記載されている。

記事においては、「そして、見つけたのが『小林家共同墓地』。／確かに墓石はことごとく小林だ。しかも、看板の雰囲気や字体が白山神社のものと共通する。宗派は浄土宗であろう。／小林と言えば、三橋の古村にも多かった名字なので関連性が推定される。ここから三橋はそれほど遠くはない。」と特定の姓と被差別部落との結びつきが示唆された上で、甲4の地区との関連性についても触れられている。

6 甲6（別紙記事目録6）

被告は、菊池山哉の著作を引用して、その中の「町谷」を「明治期の地図であれば『大谷領町谷』と特定する。

写真3ないし同11は、桶川市の施設「ユニティ」の外観及び内観の写真である。「ユニティ」は桶川市教育委員会生涯学習・スポーツ推進課 生涯学習係が管理する集会所である。被告は無人の施設に入り、施設内に貼られている掲示物や、集会室の内部を撮影している。

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街中を歩いて、被告は「『野本』という表札の家が多いこと」に気づいたと記載した。写真15は、個人宅を正面から撮影したものだが、「しかも豪邸か、あるいは広い庭のある昔は農家であったであろう家が多い。」との記事を付している。

写真16及び同18は、若宮西公園の写真であるが、「古村の中心部」とした上で、「まず分かっているのは、ここには全国水平社の桶川支部があり、支部長が野本武一という人物だったことだ。野本武一は後に部落解放同盟埼玉県連合会委員長になっている。」と解説文を付している。

写真20ないし同22及び同24は、現在は個人宅の敷地内にある、移築された「白山神社」を撮影したものであるという。

写真23は、古い地図に「辻本」「野本」という2つの姓を重ね、その分布状況を示したものである。解説文には「同時期に桶川水平社に辻本磯吉という人物がいたことが文献で分かっている。すると、古村の名字は野本と辻本ということになるのだが、菊池山哉が記述した20戸よりかなり多いように見える。」と記載されている。

7 甲7（別紙記事目録7）

写真3及び同4、同9、同11ないし同14は、地域内の白山神社の境内及び外観の写真である。写真9では石碑が写っているが、「この意思には神社の寄附者の名前があり、『松島』『小林』という名字がある。小林と言えば三橋や八王子にもあったので、関連があるのだろう。」と特定の姓を取り上げ、周辺の被差別部落とのつながりに言及している。写真13の解説文には「願い事があれば賽銭箱に入れてくださいとのこと。」とあるところ、写真14は、賽銭箱の上に「えせ同和の埼玉県連が敗北しますように」と書かれた紙片が乗っている状況であり、解説文には「えせ同和が敗北するように願掛けしておいた」と記載されている。

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写真5は、白山神社の前から、さいたま市の施設である「五反田会館」を臨んだ写真である。五反田会館は、さいたま市の教育委員会生涯学習部人権教育推進室が管理する学習施設である。写真16はその全景、同17は会館脇の掲示板の写真である。

写真10は、昔の航空写真に「松島」「小林」という2つの姓を重ねてその分布状況を示したものである。「こうやってみると、小林は周囲にもそれなりに多いのではハーンとはならない。ここに集中しているのは何よりも松島姓だろう。」と解説文が付されている。

8 甲8（別紙記事目録8）

被告は、菊池山哉の著作を引用して、加納村の分村である「大加納」を「長吏」の居所として特定している。

写真3は、住居が並んでいるが、解説文には「ここにも弾左衛門配下の長吏がいたとの記録があるが、現在では新しい家が立ち並んでいる。」と解説文が付されている。

写真4ないし同9は、桶川市の施設「パルレ」（加納集会所）の外観及び内観の写真である。「パルレ」は桶川市教育委員会生涯学習・スポーツ推進課生涯学習係が管理する集会所である。被告は無人の施設に入り、施設内に貼られている掲示物を撮影している。写真4には、「この加納集会所（別名「パルレ」）は桶川市のみならず、埼玉県でいちばん最初にできた同和集会所で、建設されたのは1963年と記録されている。翌年に町谷の集会所が出来た。」と解説文が付されている。また、写真5の写真はかつての集会所内部の備品を撮影したものである。

写真10は、「集会所の利用にあたって」という文書である。「何やら面倒くさそうである。オープンなのは建物だけのようだ。」という解説文が付されている。

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写真11ないし同15は、加納集会所付近の住居の様子などの写真である。解説文として、「古村である『大加納』は集会所の南側である。集会所の周辺はほぼ新しい住民の家である。」「大加納のあたりも、ほとんど新しい家や事業所だが、その合間に大木という表札のある大きな家が点在している。それらが昔からの古村の家であろう。」と、被差別部落の場所を特定し、地域内にある姓を特定して記事にしている。

9 甲9（別紙記事目録9）

被告は、甲9の冒頭で、精神障害のある人の退院・地域移行を支える公益財団法人が発行するパンフレットの引用として「さいたま市には、隣保館が1か所、五反田会館のような同和教育集会所が2か所あります」、書籍からの引用として「現さいたま市には、三橋3丁目（大宮区）・鹿室（岩槻区）・南中丸（見沼区）などの被差別部落がある」と記載する。

そして、上記さいたま市内の同和集会所として「鹿室南集会所」を特定する。写真3、同5ないし同7は、同集会所の外観及び内観の写真である。

写真8ないし同10、同17ないし同19、同21ないし同24は、周辺の住宅などの写真である。写真14には「記録によれば、明治初年の白山神社の氏子数は25戸、昭和初期には32戸」と記載されているが、この昭和初期の戸数は『全国部落調査』の戸数と一致しており、被告が『全国部落調査』を参考にして、訪問先や順番を特定していることを窺わせる。

写真11ないし同16は、白山神社の外観及び周辺（敷地内にある公園を含む）の状況を撮影したものである。

写真20は、昔の地図上に「桑原」姓を記入し、その分布状況を示した図であるが、被告は、「1924年7月19日に大宮町氷川公園遊園地ホテルで成年水平社夏期大会が行われ、副議長に桑原直喜氏を挙げたとする。慈恩寺からの出席者が多かったという。」と解説文を付すことで、特定の姓と

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の強いつながりを示唆している。

10 甲10（別紙記事目録10）

写真3は、昔の地図上に「松永」姓を記入し、その分布状況を示した図である。「明治期の旧和戸村を見ると、すぐに木曽良という集落が見つかる。現在の地名では岩槻区府内と城内にまたがる辺りだ。」と解説文が付されている。

写真4ないし同8は、地域内の白山神社の写真である。

写真9ないし同17は、地域内の住宅や商店を撮影している。解説文として、以下の文章が付されている。「ところで、さいたま市や桶川市の由輪クエストについて、また行政から法務局に対する削除要請がされたようである。さいたま市では担当部署の部長が、桶川市では市長までもが法務局に出向いたそうである。」「筆者はさいたま市や桶川市からは何も言われていない。毎度のことであるが、部落解放同盟から市に申し入れ、市が法務局に削除要請の代行を依頼するという、毎度のパターンである。もはや儀式化されている。おそらく、それらをとりまとめたURLリストが東京法務局から私に送られてくることになるだろう。」これらの記載は、被告が法務局からの指導について全く軽視していること、被告が「部落探訪」での被差別部落のさらし行為を継続する強固な意思を有していることを示している。

11 甲11（別紙記事目録11）

被告は、菊池山哉の著作を引用した上で、「古村の名前は『深作』。あるいは、明治の地図には『小深作』と書かれている。」と部落名を特定している。

写真3及び同4は、地域内の住居の写真である。

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写真5は、1971年3月に同地域で発生した火災現場の様子を示す写真である（書籍からの引用と思われる）。

写真6ないし同12は、白山神社の外観・内観及び境内の写真である。写真12の解説文では、棕櫚表の製法を伝えられたこの地域の人として、森本角太郎、松本忠次郎という2人の名前があげられている。

写真13ないし同18は、地域内の住居や庭の外観の写真である。写真15には「松本、森本といった古くからの家はどれも豪邸である。／現在の白山神社の氏子も16戸ほどで、実は古くからの家の数は変わっていない。」と記載され、特定の姓が地域と結びつけられている。

12 甲12（別紙記事目録12）

被告は、冒頭で「昭和初期の資料によれば、旧上福岡市の川崎に古村がある。戸数は12戸、農業のほか履物を作っていた。」と記載している。『全国部落調査』には、入間郡福岡村に「川崎」という部落があり、戸数は12戸、主業は農業で副業は履物とされているので、昭和初期の資料とは『全国部落調査』であり、被告がこの情報に基づいて、訪ねる被差別部落を特定している。

写真3ないし同5、写真16ないし同18は、地域内の道路や畑、住居等の写真である。

写真6ないし同11は、白山神社及びその境内の写真である。

写真13ないし同15は、地域内にある墓地の写真である。写真15には、「住宅地に戻ったところで、墓地を見つけた。神社の寄進者などと名字が一致するので、これが古村の墓地で間違いないであろう。宗派は時宗。」と解説文が付されている。

13 甲13（別紙記事目録13）

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被告は、甲13の冒頭で、同和対策集会所として北本市石戸宿に「堀の内集会所」が建設されたとの『北本市史』を紹介し、同集会所の写真を掲載する（写真3及び同4）。

写真5及び同6は、地域内の道路などの状況、同7は、神社の参道の写真である。

写真8ないし同12、同20ないし同23は、かつては白山神社であった石戸神社の外観及び境内の写真と思われる。

写真14、同15及び同25は、東光寺境内の写真と思われる。墓地の写真には「高松という名字が多」いとの解説文が付されている。

14 甲44（別紙記事目録14）

被告は、甲44の冒頭で、菊池山哉の著作をひき、「（長瀬村の向い側の）向井」と部落名を特定している。

写真3及び同4は、共同墓地周辺の道路の写真である。

写真5ないし同10は、共同墓地及びその敷地内の建物、石碑の写真である。江戸時代にこの地域でおきた「武州鼻緒騒動」の中心に「森茂吉」という人物がいたことをとりあげた上で、写真6には「長瀬で『森』という名字が集中するのは埼玉県道30号飯能寄居線の東側の辺り。」との解説文が付されている。

写真11ないし同18は、地域内の住居や商店、道路等の写真である。

写真19ないし同22は、出雲伊波比神社の外観や境内に設置されている石碑等の写真である。写真20には、「寄付者の名前を見ると、森姓がいくつかあり、確かに古村が氏子になっていることが分かる。」との解説文が付されている。

写真23及び同24は、薬王寺の外観と境内の写真である。

なお、甲44の中で、被告は、第1次部落探訪裁判のさいたま地裁判決

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に関する自己の見解を披瀝しているが、「部落探訪」そのものとは切り離された記載になっているので、この点については触れない。

15 甲45（別紙記事目録15）

被告は、甲45の冒頭で、向井の近隣、旧山根村にも少数（-- as is）被差別部落があったという、菊池山哉の著作を引用する。

写真3ないし同9は、この地域内の住居やすでに人が住んでいない家、道路などの写真である。写真3には「前回クエストした向井は毛呂村、山根村はその南隣であり、現在の毛呂山町葛貫に古村があったことは分かっている。そこも農村であり、副業は草履など。葛貫では竹細工である桜箕の製造がさかんであったが、それは古村に限ったものではないようである。」と解説文が付されている。また、写真4は、長年人が居住していない様子の写真だが、「かつては6軒ということだが、現在はその半分くらいのよう（-- as is）に見え、いくつか廃墟がある。」と解説されている。

また、被告は、「ところで、今年は埼玉イヤーとなりそうである。全国部落調査によれば、埼玉県には263もの古村が存在する。無論、掲載されていないものや、逆に現在では消滅してしまったものもあろうが、大体そのくらいの数と見てよいだろう。」「郷土史家、菊池山哉はそのうち50箇所程度を訪れている。筆者はその記録を超えるだろう。」「本サイトは100年先も参照される、貴重な記録となるはずだ。読者におかれても、ぜひ埼玉の古村について、情報をお寄せ頂けると大変ありがたい。弾圧に屈してはならない。」と、第1次部落探訪裁判についてさいたま地裁で記事の差止めを認める判決が出たにもかかわらず、むしろそれをふまえて、埼玉県下の被差別部落のさらし行為を集中して続けていくことを宣言している。

写真10ないし同14は、地域内にある共同墓地とその周辺の写真である。

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16 甲46（別紙記事目録16）

被告は、菊池山哉の著作から、秩父にある3つの被差別部落のうちの一つとして、旧大宮町の当該地区を、白山神社の場所から特定している。

写真4ないし同9は、相生公会堂とその敷地内の祠（白山神社）、石碑、地蔵堂などの写真であり、写真3はその近傍の公園横の通路の状況である。写真4には「古村のイメージを払拭するために、歴史ある地名を『今風』に変えるということはしばしば行われたことだ。」と解説文が付されている。また、写真9の解説文には「公会堂の敷地内の石碑から、宮城、明石といった名字が多いことが分かる。」と記載がある。

写真10は、1960年頃の航空写真と「宮城」「明石」という名字の分布を重ねた図であり、特定の姓を被差別部落との関連性を指摘するものである。

写真11は、国内の小字と地番の地理情報を収集・整理し公開している団体日本小字地名地籍編纂行会が作成した「小字地図」の情報であり、被告は、「相生町」と菊池山哉が名前をあげている「三本木」の範囲とがほぼ重なり合うことが分かるとし、当該部落の地域の特定ができたとした。

写真12ないし同17、同24ないし同29は、地域内の住居や道路等の写真である。あえて古びた家屋や、現在人が居住せず利用されていない家屋などを集中的に撮影している。

写真18ないし同22は、火災が発生した後の地域内の住居の写真である。

17 甲47（別紙記事目録17）

被告は、冒頭で、「旧原谷村の大野原に十数戸の古村があった。」と部落名を特定している。さらに、「他の資料では15戸、農業と内職の機織りをしており、生活程度は悪くなかったようである。」と述べており、これは『全国部落調査』の秩父郡原谷村の「大野原」の記載と一致する。

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写真3は、現在の航空写真上で「大野原」の範囲を記載・特定したものである。写真4及び同5は、明治期の地図で大野原の一部を拡大したものである。

写真6ないし同11は、被差別部落が存在したと思われる場所の周辺の写真である。

写真12ないし同21は、上記場所に存在した「進和区公会堂」とその敷地内の写真である。祠のようなものが存在する。

写真22ないし同25は、共同墓地の写真である。写真25には「墓地を見ると、おそらく真言宗で、確かに数は記録された古村の戸数程度だ。名字の分布から、この場所と、さきほどの曲がりくねった道沿いに1していたことが分かった。」と解説文が付されている。写真26は、共同墓地から道路を見下ろした状況の写真である。

18 甲48（別紙記事目録18）

「坂戸市の厚川に古村があるという。昭和初期は入間郡大家村だったが、同時期の菊池山哉の訪問記録はない。」と記載されている（『全国部落調査』には戸数16として記載がある）。

写真3は、現在の航空写真に地図を重ねたもので、厚川の地域が点線上で囲まれて表示されている。

坂戸市は同和対策集会所として「厚川第二集会所」を、厚川と隣接する成願寺に設置しており、厚川の本村とは川を隔てたところにある（写真4）。

写真5は、この地区上に、世帯ごとに姓を書き込んだものである。

写真6は、厚川第二集会所の写真であり、写真7は、これと近接した場所の状況である。

写真8及び同9は、共同墓地の写真であり、「墓地から宗派を推定すると時宗であろうか。ほとんどが『小林』である。」と解説文が付されている。

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写真10ないし同17は、地域内の住居や商店、道路の状況である。写真13では、商店名がはっきり読み取れる写真があり、「埼玉の他の古村でもしばしば見掛ける、園芸業者がある。」と解説文が付されている。住宅が相当に密集し路地が入り組んでいる場所であるが、被告は狭い路地を通り、道路から離れた奥まった場所まで侵入して撮影している。

19 甲49（別紙記事目録19）

被告は、「鳩山町石坂に同和対策施設がある。」として、「鳩山町石坂集会所」の写真（写真3）に、「同和施設の存在からその場所を容易に特定可能である。」と解説する。

写真6ないし同8は、同集会所周辺の写真である。

写真10ないし同15は、同集会所から高台に上がったところにある白山神社の外観及びその境内の写真である。「関東の古村の定番と言える白山神社がある。」との解説文が付されている。

写真17及び同18は、この地域内にある、古墳時代に作られたという横穴墓群の写真である。

写真19は、地域内の住居の写真であり、「水平社運動の歴史もあり、埼玉県比企郡今宿村大字石坂水平社が世良田村事件の際に義援金を出した記録がある。当時の水平社運動の関係者には小林という名字があることが分かる。」との解説文が付されている。

写真20は、地域内の墓地の写真である。

20 甲50（別紙記事目録20）

被告は、「御正新田」の部落の場所を特定するのに、菊池山哉の記述をもとに条件のあう場所を探すとして、写真3で地図上に「水野」姓を重ねて表記し、「条件のあう場所を探すと、確かに御正新田の近くに下谷ツという

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小字があり、水野が集まっている。」と解説文が付されている。

写真4ないし同6は、地域内の住居及び家屋の写真である。

写真7ないし同9は、住居の裏手の写真である。

写真10、同11及び同13は、共同墓地の写真であるが、「●●家」という表記が写真からも見てとれ、「墓はほとんど水野姓だが、どれもそこそこ立派だ。」との解説文がされている。

写真12、同14ないし同18は、地域内の住居や畑の写真である。解説文には、被告が「詳しい方」から聞いたという話が書かれている。「成沢」が地名であること、水野はそれぞれ親戚というわけではなく、近くにある寺の雑用をしていたころ、まとめて同じ名字を授けられたのではないかと言われていることなどである。

写真18には「菊池山哉は御正新田と記したが、実際成沢のこの古村のことであろう。昭和初期に17戸だったという別の記録とよく合う。一方、別の記録にある御正新田30戸とは合わない。御正新田の別の村の特定は宿題として残された。」との解説文が付されている。『全国部落調査』では、大里郡御正村として、戸数17戸の「成沢」と、戸数30戸の「御正新田」が記録されており、被告が『全国部落調査』の記述を参照しながら、部落探訪を行っていることがここからも窺える。

21 甲51（別紙記事目録21）

被告は、「古の記録によれば熊谷市石原に8軒の古村があった。地元で言われているのは『金井』という名字が部落と関係があるということである。」と記載する。『全国部落調査』では、熊谷市内の「石原」という地域には8戸という小規模な被差別部落があったとされているため、被告の「古の記録」とは『全国部落調査』をさしていると思われる。

写真3は、石原を中心とした地図上に「金井」姓を書き込んで分布状況

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を示したものがあるが、「ただ、当地ではないという名字は多く、分布を検証すると部落の名字とは考えにくい状況である」と解説文が付されている。

写真4ないし同7は、赤城久伊豆神社とその境内にある末社の一つである白山神社及び諏訪神社の写真である。

写真8ないし同17は、石原の中の「上石原」「坪井」周辺の住居、稲荷神社、道路、「馬頭観音が安置された空き地」等の状況の写真である。

22 甲52（別紙記事目録22）

被告は、菊池山哉の著書をひいて、「白幡の曲輪」を紹介し、さらに「別の記録では5戸で靴を作っていたとも。」と記載する。『全国部落調査』では、北安達郡六辻村に「白幡」という戸数5戸で、農業・靴製造業を営む被差別部落があったと記録されているので、「別の記録」とは『全国部落調査』をさしている。

写真2ないし同4は、地域内にある神社とその境内の写真であるが、被告は「少なくとも白山神社ではないそうだ。」との結論に至っている。

写真5ないし同10は、真言宗金輪山醫王寺とその境内にある門や墓地（金子家）、薬師堂、成田山等の写真である。

写真11ないし同15は、地域内の道路や住居、空き地等の写真である。被告は、聞いた話として、金子家は醫王寺の檀徒であるが、「長吏だの穢多だといった話は誰も知らず、むしろ金子の本家は苗字帯刀を許された名主の家系だったのだという。」と解説文を付記した。

23 甲53（別紙記事目録23）

被告は、「白幡」や「根岸」と隣り合っている「さいたま市浦和区神明」を甲52に続くテーマとして設定した。

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写真2ないし同6は、根岸にある神社の写真であるが、この神社は被告によって「明らかに白山神社とは違う。」と結論づけられた。

被告は「付近でとてつもなく詳しい方に教えてもらった。言いにくそうであったが、この古村は神明にあり、そこは昔は白幡と根岸の境界だったという。」と解説を付し、「浦和区神明二丁目22」と表示された住所表示を店舗建物と同時に写し(写真8)、「具体的には、この神明2丁目にある。」と述べた。

写真9及び同10は、白山神社の外観と神殿内部の写真である。

写真11は、「白幡自治会」と記載のある掲示板の写真である。「確かにここは白幡の一部で、昔は住所表記も白幡だったという。」と解説文が付されている。

写真12は、「野口」姓の分布状態を現在の地図に書き加えたもので、「白山神社は野口家が管理しているという。前出のとてつもなく詳しい方も古村の名字は野口だと言っていた。分布を見ると古村の形が浮かび上がる。」という解説文が付されている。

写真13ないし同16は金輪の建物や道路の状況の写真である。

写真17及び同18は、共同墓地の写真である。

第2 個人原告と各記事との関係

1 個人原告1及び同2(陳述書:甲65及び甲66)と甲4との関係

個人原告1は、甲4でさらされている地域で生まれ、育ち、現在に至るまで74年にわたって生活している。甲4には個人原告1の自宅が写っており、同人が代表管理者となっている共同墓地も撮影している(33ないし38)。

個人原告2は、甲4でさらされている地域で生まれ育った女性と結婚し、同地域に45年にわたって生活している。

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個人原告1及び同2を始めとする多くの地域住民が利用するみつわ会館(3ないし7)、みつわ公園(13ないし19)などの写真も多数掲載され、生活圏の安全が直接侵害される被害を受けている。

2 個人原告3(陳述書:甲67)と甲5との関係

個人原告3は、甲5でさらされている地域で生まれ、育ち、祖父が地域で創業した会社で働き、その会社の社屋の前に自宅を新築して、生活している。

甲5には自宅、会社の社屋が映り込んでおり、さらに、動画においては、会社の裏側からの映像もあり、会社の営業に悪影響が生じることも危惧される。また、地元の神社の写真も多数掲載され、生活圏の安全が直接侵害される被害を受けている。

3 個人原告4及び同5(陳述書:甲68及び甲69)と甲7との関係

個人原告4は、甲7でさらされている地域で生まれ、育ち、現在まで、83年にわたって生活している。

個人原告5は、栃木県の被差別部落で生まれ、結婚を機に甲7でさらされている地域に移り住み、現在まで、約50年にわたって生活している。

住みやすい地域を作るために地域の環境整備のための運動に取り組み、安心して生活できる環境を整えてきたのに、その成果である集会所や白山神社などの写真が掲載されることで、生活権の安全が直接侵害される被害を受けている。

4 個人原告6(陳述書:甲70)と甲9との関係

個人原告6は、甲9でさらされている地域で生まれ、育ち、現在まで生活している。

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甲9では、個人原告6の自宅が撮影され、地域の中にあって地域住民がよく利用する集会所の中や白山神社の祠の中までさらされており、生活権の安全が直接侵害される被害を受けている。

5 個人原告7(陳述書:甲71)と甲7との関係

個人原告7は、甲1でさらされている地域に生まれ、育ち、現在まで、77年間生活してきた。

甲1では、個人原告7の自宅が撮影されており、近所の家や集会所など身近な場所がさらされており、生活圏の安全が直接侵害される被害を受けている。

6 個人原告8(陳述書:甲72)と甲6との関係

個人原告8は、埼玉県久喜市で生まれ、その後、甲6でさらされている地域に転居し、24年間生活してきた。

甲6では、地域にある神社、公園、集会所がさらされ、近所の家などが掲載されており、生活圏の安全が直接侵害される被害を受けている。

7 個人原告らと埼玉県内の全ての地域との関係

各個人原告が居住する地域との関係については、上述したとおりである。しかし、原告らは、各個人原告が、自分が居住する地域のみならず、本件訴訟において甲1ないし甲13及び甲44ないし甲53埼玉県下の被差別部落に関する記事及びそこから派生する動画について、差止めを求めている。

差止めが認められるべき範囲は、情報が公開されることによってその個人が不利益を負う蓋然性が認められるか、という点で判断されるべきであって、その観点からみたとき、被差別部落の婚姻関係によるつながりが埼

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(Continuation) 玉県下に広がっていること、生活圏として一定の範囲の広がりを考慮することが妥当であること、そして、全国部落調査出版差止め等請求事件でも同様の判断が行われたことから、各個人原告の訴えによって、本件訴訟において対象とされた埼玉県下の被差別部落に係る全ての記事掲載の差止めが認められるべきである。

この点については、必要に応じて、主張を補充する準備がある。

第3 個人原告の侵害された人格権

1 侵害された人格

(1) 差別を受けずに平穏に生活する権利・利益

当該記事に具体的にどのような記載があったのかということに関わりなく、被告が、「部落探訪」(「人権探訪」「曲輪クエスト」を含む)というカテゴリーにおいて、当該地域を特定して記事・動画を掲載すること自体が、原告らの人格権である「差別されない権利」を侵害するものである。

老朽化した家屋など「廃屋」のようにことさらに取り上げることは被差別部落は汚い・怖い・環境が悪いというマイナスの感情を、見る者に惹起させることになる。自分のルーツについて、そのような情報の流布が行われることも直接的に「差別されない権利」を侵害する。

さらに、特定の部落に特定の姓の人が多いというような情報を流出させることは特定個人が被差別部落の出身であることを明らかにすることに結びつき、差別を受けずに平穏に生活する権利・利益を侵害することとなる。

(2) プライバシー権

本件ウェブページ等は、個人原告らを含む地域住民(部落民)の合意を得ることなく、それらの者の住宅及びその周辺を撮影して、その地域を「被差別部落である」と特定して晒しているものであり、それらの者のプ

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ライバシーを侵害している。

本件記事では、原告個人名や原告個人宅が特定して記載されているわけではない。しかしながら、部落差別は、差別を受ける者が「被差別部落」ないし「同和地区」という特定の地理的な範囲を有する場所に居住している、あるいは、その出身であるなど系譜的な関係があることも理由とする差別である。そのため、個人の住所を既に知っている者はもちろんのこと、住所を正確には知らないがどの地区に住んでいるかは知っている者にとっても、本件ウェブページ等の記事によって、特定の地域がインターネット上に被差別部落として表示されていることが判明すれば、差別を受ける可能性がある。

よって、本件ウェブページ等は、たとえ個人名や個人宅を明示的に記載していないとしても、その地域に暮らす特定の個人のプライバシー権を侵害することに違いない。現在もなお社会内に残存する不当な部落差別を前提とした場合、被差別部落民としてインターネット上に表示されることは公開を欲しない情報と言えるからである。

2 被告の意図

原告埼玉県連の委員長ら役員及び原告ら代理人は、本件で差止めの対象とした「部落探訪」に掲載された全ての地域について、写真の撮影場所などをできる限り特定した。また、被告が「探訪」あるいは「クエスト」と称して歩き回ったコースを歩くなどして、被告が行った部落内の周回を追体験した。

被告は、上述のとおり、この「探訪」あるいは「クエスト」が被差別部落の場所を特定するために行っているものであることを認めている。

追体験をして再確認したことだが、被告は、「全国部落調査」を基礎資料として、①「白山神社」の位置、②部落解放同盟や研究者がこれまでに調

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査・研究した成果、③集会所・隣保館など同和対策事業に関連して設置された施設、④墓地の墓石や碑などに残る地域住民の姓、⑤住宅地図や「マッポン！」のデータによる特定の姓の分布などを総合して、被差別部落の場所の特定を行おうとしている。

被告の手法は学問的裏づけや再検証の保障を欠いたもので、到底正確な特定が行われているものと評価できないのだが、少なくとも、「被告が被差別部落の地域を特定した」「当該部落に多い姓を特定した」として、それを公にさらすことは、被差別部落やその住民に対する差別意識をあおり、さらなる差別を生み出すものであって、決して許されるものではない。

以上

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